「DX」を叫べば叫ぶほどに、お客様やあなたの部下は、胡散臭いと感じるに違いない。
経営者は、DXの大号令を下し、「何をすべきか」は、各部門で考えろと言う。そして、「DX」や「DX推進」、すこし小技を効かして「デジタル・ビジネス」の冠を掲げた推進組織を立ち上げて、「DX」なるものを、彼らに丸投げする。
デジタルが当たり前の世の中になり、それに適応できなければ、まずいことになることくらいは、もはや誰もが理解している。しかし、「DXをやれ」と言われても、これまでもやってきたはずの「デジタル化」や「IT化」と何が違うかが、分からない。そこで、他社は何をしているのかをネットで検索し、事例を探し、自分たちに当てはまりそうなネタを探すが、しょせん他社の話だ。それをそのまま使えるはずもなく、どうすればいいのかの沼にはまりこんでしまう。そんなことを繰り返してはいないだろうか。
所詮はバズワードであろう。明確な定義や範囲が定まっておらず、人によって思い浮かべる内容がバラバラであり、そんなモノに関わっていても時間の無駄だ。しかし、会社の方針であれば仕方がない。現状を変えることなく、本業に差し障りのないところでデジタルを使い、会社の「DXごっこ」につき合うことで、体面を保つことに努める。
もし、このような事態になっているとしたら、DXを胡散臭いと感じるのは、仕方がないことかもしれない。
そろそろ、落ち着いて、足下を見るべきだ。「DX」などという言葉を使わなくても、当たり前のことをやればいい。そんなに難しい話しではないように思う。
私は、次の3つのことをすればいいと思っている。
1.自社の非常識を世の中の常識に近づける
かつての常識はあっという間に陳腐化し非常識になってしまう。その変化のスピードは、ますます速くなっている。そんな変化に合わせて、自分たちもまた対応し、世の中の常識に合わせることだ。
例えば、未だ次のようなことをやっているとすれば、自分たちは、世間常識からかけ離れていることを素直に認めるべきだ。
- 世間で当たり前に使われ、普及しているファイル交換サービスが使えない。そのかわり、セキュリティ・リスクが高く使用中止が広く推奨されているPPAP(zip暗号化添付)を、いまだに使っている。
- 使えるクラウドサービスが限定されている。他社やお客様と共同作業をするにも同じサービスを利用できないので効率が悪い。どうしても使わなくてはならないときには、特別な許可をもらえばいいのだが、そのために煩雑な手続きが求められる。
- VPNのためのネットワーク帯域が狭く、Web会議で画像を表示できない設定になっている。あるいは、使うことを制限されている。
- 使い勝手の悪いVDIをいまだ使っている。個人のPCやスマホを仕事で使えない。
- リモートワークを推奨するも、働ける場所は、自宅やサテライト・オフィスなどに限定されている。他の場所で働くことが、原則許されていない。 など
こんな馬鹿げたことをまずは辞めればどうだろう。それだけで、業務の生産性は上がるし、お客様や世間様に、肩身の狭い思いをしなくて良くなり、明るく、自信を持って振る舞えるようになるはずだ。
2.身近な「困った」を見て見ぬふりをせず解決/改善する
暗黙の了解やいつものやり方に疑問を持っても、体面や組織の調和を気にして、意見を述べない。そんな組織の空気が、解決や改善の障害になる。そんな見えない壁を取り除くことだ。
例えば、未だ次のようなことをやっているとすれば、大いに反省し、対策すべきだろう。
- 何のためにこの業務があるのかが分からないが、慣習であると言うだけの理由で続けている。
- タブーになっていることを発言すると「空気が読めないヤツ」と言われそうなので、できるだけ、それについては触れないようにする。
- どうすればいいかは分かっているが、発言をすると組織の体面や調和を乱すので言わない。
- 何をするにも全て上司の了解や稟議を経なければできない。
- お客様との打ち合わせでは、関係しそうな組織の人たちをできるだけ多く同行させて、自分の担当以外は彼らに発言させるようにする。自分の関与は少なくする。 など
心理的安全性が欠如している状態ということができるだろう。うちはオープンで、自由に発言できるようになっているというひともいるかもしれないが、本当にそうだろうか。
発言をすると上司やまわりが、「罰」を与えているならば、決してオープンではない。例えば、「君の言うことも分かるけど」や「そんなことを言い出すと困るひとたちもいるからなぁ」と、優しく咎められることも「罰」であり、心理的安全性を低下させる行為だ。
このような状況を改めない限り、改善や改革は進まない。
3.パパース(存在理由)を再確認し、それに対する脅威を認識する
自分たちのパーパスを曖昧なままに、様々な取り組みを行っても、状況の変化に流されて、十分な成果をあげることはできないだろう。また、世の中のいかなる変化が、自分たちのパーパスを脅かしているのかが分からないので、対処しようがない。
かつては、自分たちが世間から評価されたパーパスがあったとしても、テクノロジーや社会環境が変わり、新たな競合が出現すれば、それが、いまも同様に評価され、受け入れられるとは限らない。その現実を受け入れて、いまの社会にふさわしい、パーパスを再定義する必要があるだろう。
例えば、未だ次のような状況であるとすれば、あきらかに、自分たちのパーパスが、世間からずれている証拠だ。
- アジャイル開発の需要は限定的で、従来のやり方で当面は凌げると思っている。事実、お客様から、そんな相談を請けることは、めったにないからだ。しかし、本当のところは、お客様が「あの会社に相談しても無理だろう」と最初から諦められているからで、そんなお客様の本音にも気づけない。
- 新規事業の開発やユーザー企業の事業部門とのチャネルを開きたいのでベンチャーと組みたいと思っている。しかし、ベンチャー企業の立場に立つと、意志決定に時間かがかかり、手続きも煩雑で、手間がかかる会社とは組みたくない。少数精鋭で事業を回さなければ成り立たないベンチャーにとっては、時間感覚の違う相手は、自分たちの存続にとって脅威である。そのことが、分かっていない。
- 内製化が拡大するなか、意志決定の重心は、事業部門に移りつつある。しかし、彼らが求めているのは、「工数の提供」ではなく、自分たちにはない「技術力の提供」である。売るべきものが変わっているのだから、それに対応できなければ案件にならない。それにもかかわらず、営業のやり方が何も変わっていない。
- 「これからは、内製化でやります。必要な時に相談しますね。」というお客様の言葉を真に受けている。本音はこうだ。「貴方たちに相談しようにも、技術力がないのでそれができません。自分たちで何とかしますから、お引き取り下さい。」である。そんなことに気付いていてない。
- 「アジャイル開発やクラウドに、もっと積極的にチャレンジしなくてはなりませんね」といまさら言っているとすれば、これは時代錯誤も甚だしい。 など
決して、これまで事業価値を生みだしてきた自社のパーパスが間違っていると言うことではない。時代が変わり、顧客が求める価値もかわったことで、同じままでは、もはや十分な顧客価値を産み出せないと言うことだ。また、それは、既存の事業が脅威にさらされていることに気がつけないことになる。
この現実を真摯に受け止めなくてはならい。新たな事業の伸び代を手に入れるには、時代にふさわしいパーパスを再定義する必要があるだろう。
ちなみにトヨタは、2018年、「Drive Your Dreams」という標語を「Mobility for All」に変えている。「自動車を作る会社」から「移動をサービスとして提供する会社」に変わるという意思表明だ。ITベンダーやSI事業者であれば、こうなるだろう。
「工数を提供する会社」から「技術力を提供する会社」へ
たぶん、この話を読んだ人たちの多くは、なるほど思うだろう。しかし、これを実行に移すのは大変だと思う人も多いはずだ。その理由は、上記2に示した心理的安全性の欠如であろう。
上記に示したようなことは、私ごときの他人にとやかく言われるまでもなく、十分に分かっているし、そのための情報収集や学びも怠らずにやっている人たちも多いに違いない。そういう「個人の学び」が、「組織の学び」にならないのが、心理的安全性の欠如である。正しいこと、あるいは、世間の常識を主張すると「罰」を与えられる組織では、学びは個人に留まってしまう。組織として議論され、切磋琢磨し、組織力の改善に結びつけるべききっかけが、生まれないらだ。
その結果として、学びを怠らない個人は、学ばない組織に見切りをつけて、転職してしまう。結果として、学ばない個人と学ばない組織が温存され、ますます改善や変革が進まないという悪循環を生みだしてしまう。
この悪循環から抜け出すために、「危機感を煽る」あるいは、「叱咤激励」しても意味がない。外部の講師を招いて「有り難い言葉」を賜っても、その時の一時的な意識の高揚は図れるが、改善や変革には結びつかないだろう。
カタチから入れ
それが一番良い。それが、上記1で伝えたいことだ。世間の常識に近づけるだけの話しだ。カタチには、その背景に価値観や思想がある。世間の常識というカタチには、いまの時代が受け入れている価値観や思想があるのだから、それにあわせることで、体験的に世の中の価値観や思想が、社内に染み込んでいくはずだ。そうやって、カタチから攻めてゆくのが、実効性のあるやり方であるように思う。
そんな取り組みを継続すれば、自ずと社員の行動様式が変わってくるだろう。それを継続すれば、組織の風土や文化が変わる。
デジタルが前提の世の中に適応するために変わり続けることができる企業へと変革する
DXとは、そんなことであろう。それは、その結果としての「有り様」であり、社員を鼓舞する、あるいは、お客様に売り込むための標語ではない。
だいぶ前の話だが、中国の深圳で工場を見学したことがある。そこにはいたる所に、「飲食禁止」の標語が掲げられていた。案内をしてくれた工場長が話していたことが、いまも記憶に残っている。
「何度言ってもできないので、この標語を外せません。」
DXも、できないから叫ばなくてはならないのかも知れない。そもそも、DXとは何かについての社内の議論やコンセンサスがないままに、ことばだけがひとり歩きしているのではないか。そんな状況にあるから、「DX」という言葉を聞くと、「またDXかぁ」と疑心暗鬼になり、胡散臭いと感じさせるのではないか。
DXかどうかはともかく、ここに紹介した3つのことができれば、それでいいではないか。そして、それができれば、それを「DX」と呼べばいい。それだけのことのように思う。
シンプルで分かりやすいです。