「今日の仕事は、楽しみですか」
先日、品川駅で掲載されたデジタル広告に批判が殺到した。「仕事は楽しみじゃなきゃいけないのか」、「つらくてもなんとか仕事を頑張っている人を傷つける言葉だ」などの反発が起こり、広告は直ちに中止され、公式サイトに謝罪文を掲載する事態になった。
仕事が成長の喜びとなっていない人たちが、少なからずいることを、改めて、気付かされることとなった。なんとも悲しい現実ではないか。
「ワーク・ライフ・バランス」
2009年を頂点として、日本の人口が減少に転じ、少子化対策として仕事より生活の比重を高める重要性が注目されるようになった時期、この言葉は盛んに使われた。ただ、この言葉は、仕事と生活が、対立関係にあることを前提にしている。つまり、仕事のやり過ぎは会社の搾取につながり、身体やメンタルを蝕む「辛い」ものだから、個人や家族との「楽しい」生活を増やし、両者の帳尻を合わせるべきだという考えである。「働き方改革」の多くは、この考え方に愚直に向きあっているような気がする。
冒頭の事件は、そんな取り組みがうまくいかず、「ワーク・ライフ・インバランス(不均衡や不安定)」で辛い思いをしている人たちの反発が招いたことだったのかも知れない。
そもそも、私はこの言葉に、以前から違和感を感じていた。本来、仕事と生活は、対立関係に置くべきではないと思うからだ。私にとっては、仕事は、成長の機会だった。猛烈サラリーマンの時代を生きた人間が、このようなことを言うのは、信憑性を欠くかも知れないが、仕事以外の時間でも、何かにつけて、仕事のことを考えていたし、仕事に役立つかどうかともかくとして、社会人として一人前になるためにと、様々なジャンルの本も何冊も読んだ。ケジメがないと言われれば、それまでだが、それを「ワーク・ライフ・インバランス」だとも思わなかったし、ことさら取り立てて「ワーク・ライフ・バランス」を目指すことも考えていなかった。
私は、30代半ばにして、サラリーマンを卒業したが、それからは、ますます「ワーク・ライフ・イコール」あるいは、「ワーク・ライフ・ミックス」といった表現がしっくりくる生き方をしてきた。生きてゆくために仕事をしなくてはならない。決められた給与もなければボーナスもない。生活を向上させるには、自分の仕事の質を高め、人とのつながりや知識も増やさなくてはいけないし、なによりも、自分自身が人間として成長しなくてはならない。仕事と生活を区別するのは、現実的ではない。
なにも、こういう生き方を無理強いするつもりはない。人生は人それぞれである。ただ、時代は、あきらかに、私のような考え方が、有利な社会になってきたように思う。
かつて、均質な労働力を集め、組織全体の効率を高める労働集約型経営が求められていた。昭和から平成に移り変わった1989年には、「24時間戦えますか」が、新語・流行語大賞にがランクインした。そんな時代を引きずっていたからこそ、「ワーク・ライフ・バランス」は、働き過ぎを戒めるメッセージとして、役割を果たしたとも言える。
しかし、多様な個人の才能を最大限に引き出し、それらを組み合わせてイノベーションを生みだす知識集約型経営が、求められているいま、もはや時代にそぐわない。かつてのような、仕事と生活を対立関係に置くのではなく、生活あるいは人生(ともにライフ)の一部として、仕事を位置付けることが大切な時代になるのだろう。
「ワーク・イン・ライフ」
NTTの澤田純社長は9月28日のオンライン会見で、このような言葉を使い、「社員一人ひとりが仕事(ワーク)を人生(ライフ)の一部と捉えて、自身の働き方を自由に選択する」ことへと、雇用のあり方を変えてゆくことを明言している。
人生の喜びと仕事の喜び、人間としての成長と仕事における能力の向上、仕事の時間と学びの時間が、対立する関係ではなく、お互いに影響し合い、依存しあう関係にあるのが、これからの働き方のあるべき姿なのかも知れない。
つまり仕事のための生活や人生ではなく、生活や人生のための仕事である。それができる人が、益々力を能力を発揮できる時代になろうとしている。
コロナ禍を経験した私たちは、半ば強制的にリモートワークを経験した。その結果、通勤や出張などに伴う移動がなくなり、生産性が上がったとの評価は少なからずある。また、多様な働き方を許容する気運が高まり、インクルーシブな雇用形態が実現し、会社へのエンゲージメントを高める機会にもなった。「ワーク・イン・ライフ」へ移行する千載一遇のチャンスが訪れたわけだ。
その一方で、仕組みや制度が、この変化に追従できず、あるいは、「出社=仕事」という、価値観から抜け出せない人たちが、このチャンスを拒絶し、再び古い価値観に引き戻そうとしている。時代の変わり目というのは、いつもそう言うものだ。たぶんそうやって、時代は変わってゆくのだろう。
もちろん、私はリモートワークで、全てがこなせるなんて思ってはいない。リモートワークをきっかけに、あらためて、直接、人と人が接することが、心を慰め、信頼関係を醸成し、創造的な仕事のために、必要不可欠であると実感した人たちも多いだろう。人との直接のふれあいが、とてもプレミアムに感じられるようになった。
問題の本質は、働くことへの価値観の転換であろう。リモートワークと出社の対立の構図ではない。仕事と生活/人生を対立関係と捉えることから、相互依存関係と捉えることへの価値観の転換と捉えるべきなのだ。
ドイツの哲学者であるハンナ・アーレントは、人間の「活動的生活(日常的な活動を主とする生活)」を3種類に分類した。
活動(action)
自発的にやること。心からやりたくてやる純粋な行動。
仕事(work)
誇りをもってやること。金銭など特定の目的があるからやっているところもあるが、強制されている訳では無く、むしろやる気に満ち溢れている。
労働(labor)
生きるためだけにやっていること。ベルトコンベアで流れてくるものを処理していくイメージ。やらないで済むならできればやりたくないこと。
知識集約型のビジネスでは、「労働(labor)」の生産性が最も低い。仕事(work)や活動(action)と捉え、自発的かつ自律的に働くことができるようにすることが、これからの時代の最も重要な経営課題であろう。
そのために問い直すべきが、会社のパーパスである。トヨタは、2001年、「Drive Your Dreams/新たな発想、無限の未来へ」とのモットーを掲げた。それを、2018年、「Mobility for All/すべての人に移動の自由と楽しさを」と変えた。これは、自らを「自動車メーカー」から「移動をサービスとして提供する会社」へと変わることの宣言だ。これもまた、自分たちのパーパスを再定義することで、自分たちの事業もまた再定義し、収益構造やビジネス・モデルの転換を図ろうとしている。当然、働き方もまた、それにふさわしいカタチに変えようとしている。
【参考】トヨタが新しい働き方の実践フェーズへ、キーワードは「全国、どこでも」
時代の変化に合わせて、ふさわしいパーパスを定義し、それを従業員と共有することだ。そして、パーパスを第1に、施策を打ってゆく。ちなみに、「第1」とは、「収益よりも優先する」ことである。そうすれば、そこに共感し、そんな会社と共に自らも成長したいという人たちが、会社の成長を支えてくれる。
パーパスは判断基準を明確にするので、細かなルールで社員を縛らなくても自律的に人や組織は機能する。リモートワークでPCの立ち上げ時間を管理し、働いているかどうかを監視しなくても、彼らは自分の意志で活動(action)し、仕事(work)をする。それが当たり前の行動習慣として根付いているのが「アジャイルな企業」である。これについては、先週のブログで詳しく述べているので、よろしければ、ご覧いただきたい。
「ワーク・イン・ライフ」は、そんな価値観を前提にした、働き方であろう。
当然、このような会社の態度は、そこで働く従業員のパーパスを問う。ならば、従業員もまた、会社のパーパスを自分のパーパスと照らし合わせて、受け入れがたいとなれば、その会社を辞めるという選択肢を持つべきだ。そんな対等の関係を持たなければ、両者ともに不幸になってしまう。
会社と従業員がパーパスをあきらかにし、お互いが対話し、時には対立するほどに、それぞれに成熟していれば、「ワーク・イン・ライフ」は、地に足のついた企業の文化になる。
終身雇用や退職金で社員の人生を会社に縛り付け、定時に出社することで会社への忠誠を測る高度経済成長時代の働き方が、これからもうまくいくはずはない。それにしがみつくことは、社員も会社も不幸にする。むしろ、自律した個人が、自律した組織やチームで、会社を動かし、成長させる。会社は、そんな個人やチームが、その能力を最大限に発揮できる雇用のあり方を目指すべきだろう。
それができない企業は、存続も成長も難しくなる。ならば、それができない会社からは、とっとと辞めたほうがいい。ただ、そのためには、自分もまたどこに行っても通用する生き方ができていなくてはならない。個人もまた、自律を目指さなくちゃいけない。
もうそんな時代なのだということに、気付いて覚悟を決めるべきだ。迷い、躊躇しているうちに、会社も自分も取り残されてゆく。
強く共感します