「最近、PMになりたくないというエンジニアが増えて、会社でも問題になっているんですよ。」
毎週水曜日の夜に開催している「ITソリューション営業塾」の後、参加者との会食で、ある大手ソリューション・ベンダーの方から、そんな発言があった。
私はその話しを聞いて、「まあ、いつの時代にも、そのような人はいますよ。今に始まった話じゃない。せいぜい、10人にひとりいるかいないかじゃないんですか?」
すると、別の会社の方が、
「いや、そんなことはありません、うちの場合は、10人いたら半分は、そんな感じです。」
すると、他の方も同感だと相槌を打った。
「聞くところでは、新卒の入社面接で、『私はPMを目指しています』といいなさい・・・という指導を受けているそうです。PMになろうという人が少なくなったので、このような発言をすると採用されやすいからだそうです。」
いやはや驚いた。
なぜPMになりたくないのだろうかという質問に、「PMになっても、苦労するだけで何もいいことがない」という答えが返ってくるという。
では、PMになることが、昇給や昇進のキャリア・パスになっていないのかというと、そういうことでもないらしい。PMは、確かに大変な仕事ではある。しかし、社内における評価は高く、やりがいのある仕事と感じている人も少なくない。
ではなぜなのだろうか。こんな意見が出た。
・仕事を任され、その責任を持つことが、いや。
・他人を束ねるために、人に関わることが、いや。
・人と競いたくない。
・人に厳しく評価されたり、悪く見られたりはしたくない。
・大きなことは望まない、そこそこで十分。
・自分の好きなことができればいい。
本当にそうなのだろうか。
確かに、学校教育の問題もあるだろう。一等賞のない運動会。学力テストの成績や順位を曖昧にする成績評価制度。「勉強しすぎ」は悪いことといわれ続けたゆとり世代。社会が競争であることをタブー視している中で育ってきた若者たちに、親父目線の価値観を押し付けるのも酷なのかもしれない。
もうひとつは、公共心の喪失ということもあるのかもしれない。これも広い意味では、教育問題なのだろうが、自分達が社会に活かされている存在であるという自覚の欠如である。
「世のため、人のため」ではないが、社会に貢献することで、世の中が豊かになる。その見返りとして、自分達もその恩恵を受ける。だから、自分も「世のため、人のため」に成長しようではないかという意識である。
世の中が豊かになり、与えられることが当たり前の世代。誰かが与えてくれるであろうという漠然とした安心感の中で、何をがんばる必要があるのかという思いが、あるのかもしれない。
しかし、本当にそうなのだろうか。振り返れば、自分が、大学を出たばかりのころは、似たようなものではなかったのか。
彼らに、「PMになりたくない」といわせるのは、世の中が悪いから、教育が悪いからと責任を転嫁しているようで、なんとも居心地が悪い。ことの本質は、もって別のところにあるのではないかと思っている。
車を走らせていると、「あっ、こんなところに信号があっただろうか」と思うことがある。また、今までなかった、狭い道にガードレールが作られ、走りにくくなったなぁと思うこともある。
しかし、信号が減らされたり、ガードレールがなくなるといった経験は、かつて一度もない。安全のためという大義名分のもとに、こんなところにほんとうに必要ないだろうと思うようなところにも、どんどん作られてゆく。しかし、それらが、「あっ、なくなってる」という経験はまったくない。
会社でも同じことが言える。業務手順や社内ルールは、増えることがあっても減らされることはない。コンプライアンス、環境対策、個人情報保護・・・どんどんと規制やルールは増えていっても、減らされることがない。
その精神を考えれば、もはや過去のルールは廃棄してもいいのではと思えることも、ルールを減らすことは、タブーであるという意識が働いている。その結果、過剰なまでの規制意識、コンプライアンス意識が、リスクを犯してチャレンジすることを許さない。とにかくリスクを徹底的に排除するといった風潮を生み出しているのではないか。
いい仕事とは、画期的なこと、「そこまでやるのか!」とおどろかれるような仕事をすることではない。そこそこでもいいから、絶対に失敗しない、確実で、無難に成果を出す事を評価する。
先日、ある研修会社で、新入社員研修の日報をオンラインで書き込み、人事担当者がコメントできるシステムの開発に関わった。
新入社員研修が始まり、その使い勝手や課題などを伺った折、お客様の人事担当者から、「受講生が日報を書き込んだ際のタイム・スタンプを消すことはできないか」という相談をうけたという話しを聞いた。
タイム・スタンプがついていると、就業時間後や休日に仕事をしたということが、明らかになるのでまずいというのである。
そこまで、意識しなければならないのかと、その人事担当者の心情が思われ、ちょっとかわいそうになってしまった。
ルールで縛り、リスクを犯す事を絶対に許さない。もし何か問題が起こっても、それは「あってはいけないこと」なので、表に出すことができない。相談できない。仕方がないので、自分で抱え込んでしまう。最初は些細なことで、何とかなるだろう、何とかできるだろうと考えていたものが、どんどんと事態を深刻なものにしてしまう。それに耐え切れなくなり、心の病で苦しむ人も出てくる。
最初は、仕事を任せていた上司が、なにか問題が起きそうになると、そんなことをやらした覚えはない。本人が自分で判断したこと。自分には関係ないとはしごを外す。
そんな苦労はしたくない。だから、大きな仕事、責任のある仕事、チャレンジはしたくない。「PMになりたくない症候群」とは、そんな会社が、自ら生み出した過剰な「自己免疫疾患」ではないのだろうか。
不安もあるが、希望に満ちた若者たちである。いろいろと大人たちは言うが、彼らにも熱い思いや意欲がある。それをどんどんと萎縮させ、「PMになりたくない」と言わしめているのは、大人達ではないのか。そんな自分達の責任を棚に上げ、「最近の若い者は・・・」と嘆いている。実に滑稽なことではないか。
今年度、ゆとり世代の第一期生が、新入社員としてやってきた。大人たちは、そんな彼らを心配し、疑心暗鬼になっている。しかし、まずは、自分の足元を見るべきだ。
かれらの可能性を開花させ、会社に貢献してくれる人材として育てるのは、職場の環境である。若気の至りを許し、何かがあれば、いつでも相談に乗り、助けを差し伸べる、そんな彼等の心のセーフティ・ネットを用意することではないのか。
自分達が築き上げてきた環境を省みることもせず、彼らを、ゆとり世代だ、草食系だ、覇気がないなどとは、軽々しく言うべきではない。
そうさせているのは、自分達だという、大人としての自覚が必要なのではないだろうか。
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