「お名前様は、斎藤様のほうで、よろしかったでしょうか?」、「ご注文のコーヒーになります。こちらのほうで、よろしかったでしょうか?」・・・とても気持ちが悪い。
なんとか丁寧な言葉を使わなければいけないと思っているのだろうが、とても違和感を感じる。「ファミレス言葉」、「バイト敬語」、「マニュアル語」などと言うそうだが、これだけ世間で話題になり、おかしいぞ!と騒がれているにもかかわらず、いっこうに無くなる気配がない。
こんな話を、たまたま東北出身の人にしたら、そんなにおかしくはないよという反応が返ってきた。というのも、東北や北海道の人に電話をすると「はい、斎藤でした」という返事が返ってくる。「こんばんは」も「おばんでした」となる。現在のことなのに表現は過去形。昔からごく普通に交わされている表現だ。なるほど、「ファミレス言葉」に似ているような気もする。もしかしたら、ファミレス言葉の起源は東北にあるのかもしれない。
しかし、起源がどうあれ、言葉は適材適所である。東北で使うならそれは方言として普通であっても、東京ではおかしいという自覚をもってほしい。
自分では、丁寧に話せた思って勝手に満足しているのかもしれないが、その一方で相手を不快にさせているという事実に気付いてほしい。
こんなケースもある。
「イラッシャイマ~セェ」、「ア~リガトウ、ゴザイマシタ~」・・・人の顔も見ないで、節(ふし)を付けて声を出すコンビニ店員。パブロフの犬である。その言葉の意味も考えず、感情すらない。ドアの開け閉めに対する単なる条件反射に過ぎない。こんな声を聞くぐらいなら、チャイムやブザーをならしてくれた方が、よほど心地いい。
このように相手のことを慮(おもんぱか)る態度の欠如は、今の若者達の間に広がっているようで、とても気になっている。
営業という仕事は、言葉を武器として使う。正しい言葉遣いは、相手の心を動かす力がある。相手の気持ちや求めに応えようとすると、人は相手に伝わるように、そして、心に響くように言葉を選ぶ。そんな経験の積み重ねが、正しい言葉遣いを育ててゆく。
私は大学時代、「特殊教育学科言語障害児教育課程」を専攻していた。その授業の中で、こんな話を聞いた。
聾唖者の母親が子供に言葉を覚えさせようと、毎日テレビを見せていたそうである。しかし、結局その子供は言葉を話せなかった。その理由について教官は、「言葉は、相手に何かを伝えたいという気持ちが無くては習得できない」からだという。
普通母親は、その意味が通じているかどうかはともかくとして、子供に盛んに話しかける。子供もまた、話しかけられたことに何とか応えようと言葉にならない声を母親に返す。母親もまた、その声に反応して、「そうなの・・・、そうなのよねぇ~」などと言葉を返す。子供は、その母親の反応が嬉しい。そうやって子供は、また何かを伝えようという気持ちを持つようになる。このような関係が先ずできなければ、言葉は習得できないというのである。
人は、言葉を学ぶ以前に、相手への思いやりや愛情を育てる。言い換えれば、相手への思いやりや愛情無くして、言葉は学べない。
「ファミレス言葉」やコンビニの「条件反射言葉」には、相手の目線、相手への思いやりや愛情がまさしく欠如している。
自分さえ良ければいいという風潮。これは、言葉だけの問題ではない。日本の良き伝統が崩壊する兆しなのか・・・私の考えすぎならばいいのだが。
私も営業をしていてお客様との会話に、コンビニ語的な話し方をしていそうで恐ろしいです。一度、自分の会話を聞いてみたいものです・・・。