株主総会
2020年6月29日、自動車部品メーカー「パシフィック・オートパーツ社(従業員5320人)」の株主総会。ひな壇に登壇した経営者一同は、緊張の面持ちながら、自信を覗かせていました。2017年からの増収増益、新規事業も順調に伸び、創業以来最高の業績となったからです。売上高5112億円、営業利益807億円、自動車部品48%、それ以外52%という数字は、2016年度のスタートした「eカイゼン5855」運動の目標値を見事に達成するものだったからです。
IT活用を促進するきっかけ
この会社も例に漏れず2015年末頃まで続いた円安による為替差益で収益を押し上げることはできたものの、その後の円高により新興国との価格競争を強いられ、2016年度は、減収減益に転じてしまいました。
この会社には、伝統的に「カイゼン」の伝統が定着していました。そのおかげで、市場環境の変化にもうまく対応してきましたが、ビジネス環境の不確実性が高まる中、変化は加速し、容易に対処できない状況になっていました。
この年、新たに就任した山田社長は、「このままでは、経営の安定も成長も難しい」と考え、将来に備えた経営戦略の抜本的な見直し図ることにしたのです。
社長の想いと現場の抵抗
彼は、技術端の出身で、製品開発に長年携わってきました。また、本業の自動車部品ばかりでなく、それを作るためのロボットや製造装置の事業化も手がけ、この会社のもうひとつの事業の柱を築いた人物でした。
彼は、テクノロジーを製品開発やもの作りに活かすだけではなく、経営全般に活かし、攻めの経営を目指すべきだと考えていました。また、ワークスタイルの多様化にもテクノロジーを活かすことができると考えていました。そうすれば、社員の意欲も高まり、活性化され、イノベーションを生みだす環境も整います。
しかし、現場のたたき上げで業績を上げてきた成功体験を持つ経営幹部や現場責任者の多くは、テクノロジーは、効率や生産性を上げるための手段との意識が根強く、経営や事業のイノベーションに結びつけて考えてはいませんでした。また、「カイゼン」も、現場最適のための人に依存した取り組みの域を超えず、組織を越えて、会社全体をどうするかという意識はありませんでした。
「eカイゼン5855」運動
そこで、彼は社長就任を機に、それまでの「カイゼン」の伝統を踏まえつつ、テクノロジーを積極的に取り込み、全社的なビジネス・プロセスにまで踏み込んだ新しい「カイゼン」活動、「eカイゼン5855」運動を全社的に展開することを表明したのです。
「eカイゼン5855」は、次の3つの理念に支えられています。
- One for All、All for One
- 「カイゼン」は、常に全体の一部と捉える。自分達のプロセスの前後、あるいは関連するプロセスにも「カイゼン」を提案し、プロセス全体の改善を実現し、結果として自らも成果を得る。
- 高い目標と成果×スピードの最大化
- 高い目標を掲げても成果が出るまでに時間が掛かっていては、価値はない。目標は高く掲げつつも、目標に向けたマイルストーンとKPIを定め、マイルストーン毎に成果とスピードを追求し、継続した「カイゼン」に努める。
- テクノロジーでイノベーション
- 上記理念を実現するためにテクノロジーを積極的に活用する。テクノロジーに任せられることは、徹底して任せ、人間にしかできないことは何かを追求し、テクノロジーと人間が協働して最大限の効果を引き出す。
その上で、次の目標を掲げました。
- 2020年度(カッコ内、2016年度)
- 売上5000億円(3420億円)、営業利益800億円(326億円)
- 自動車部品50%(68%)、その他50%(32%)
この取り組みの数値目標を全ての社員が常に意識できるようにと、売上5000億円の「5」、営業利益800億円の「8」、製品構成比50:50の「55」を組合せ「5855」をプロジェクト名称に付け加えたのです。
プロジェクト始動
社長直下の経営企画部には、事業部門の中堅・若手を中心に精鋭36人を集め「eカイゼン5855推進室」が設置されました。さらにIT部門42名を経営企画部に統合し、カイゼン活動とIT利用の同期化を行いやすい体制を整えました。
IT部門は、その後アプリケーションの開発とデータの管理・保全を社内で行えるようにと72名まで増員されました。
こうして、「eカイゼン5855推進室」は、各部門の活動や部門間の連携、情報共有を支援するとともに、ITベンダーやクラウド事業者などの協力を得ながら、テクノロジーの活用をアドバイスし、テクノロジー・サービスの選定や導入、システム開発を行い、目標達成に向けた取り組みを開始したのです。
ITの活用については、次の方針で臨みました。
- クラウドの全力活用:ITインフラは、全面的パブリック・クラウドを活用し、自らのシステム資産は持たない。但し、コンプライアンスおよび技術的理由から対応できないものは除く。
- デジタルなビジネス環境の実現:情報のデジタル化を徹底し、ペーパーレス、ロケーションフリー、オープン・アクセスを実現、いつでも、どこでも業務をこなせる環境を実現する。
- 現場とITの密結合:経営や業務の最前線が、ITを簡単、便利に使える環境を提供し、現場の意志や判断が、直ちに反映されるIT利用環境を整備する。
会社を再生した「eカイゼン5855」
ITの活用により、仕事のやり方が大きく変わりました。それは、コストの削減や生産性の向上だけではなく、お客様との関係を変え、社員のワークスタイルを大きく変えました。また、世界中の工場や販売拠点がリアルタイムで結びつき、ひとつの生き物のように機能する、そんな会社に生まれ変わったのです。
その結果、お客様の満足度は高まり、売上も利益も大きく改善しました。また、社員の働く意欲も高まり、成長の基盤が築かれてゆきました。
- 全般
- ペーパーレスやオンライン・オフィースツールなどを活用することで、ワークスタイルの多様化が進み、社員それぞれに応じた「働きやすさ」が実現された。
- 従来型のデータやプログラムを保存しなければならないPCはほぼなくなり、ネットワークにつながるタブレット型のディスプレイやスマートフォンを使い、ネットワーク越しにデータや個人毎の利用環境が一元管理されるようになった。そのため、セキュリティへの不安も解消されBYOD(Bring Your Own Device:個人所有のデバイスを業務目的で使用すること)は日常化した。
- 顔を合わせる必要のある場合を除き、会議や打ち合わせは、オンラインで行われることが増えた。
- 人工知能やBRMS(Business Rule Management System)を使うことで、アプリケーションの開発や保守は、プログラミングや技術的スキルがなくてもできるようになったため、業務現場で、自分達のニーズをすぐに情報システムに反映できるようになり、ITの活用が促進された。
- 開発
- ネットワークにつながることを前提におおくの製品が開発されるようになった。これにより、製品の実稼働状況データが大量に収集されるようになり、製品の開発やカイゼンに大きく貢献するようになった。
- 「ハードウェアは、ソフトウェアのプラットフォーム」という考え方が広く定着し、既に使用している製品もソフトウェアのアップデートにより、性能や機能の向上・改善が図られるようになった。
- 設計は人工知能と対話的に進めることが常識になった。過去の膨大な学術論文、実験データ、製品から送られてくる実稼働データなどのビッグ・データをもはや人間の能力だけで分析することはできない。人工知能によるクラスタリングや最適化の機能をうまく使って、売れる製品をつくることが常識となった。
- 設計データや試作品は、Webで稼働するCADや3Dプリンターによって、お客様と直接やり取りすることが普通となり、お客様個別の仕様に対しても、お客様との意思疎通も円滑に、かつ迅速に行えるようになって、顧客満足度も向上している。もちろん、設計データは直ちに生産指示に回すことができるので、短納期でお客様に納品できる。
- 製造
- 生産設備は、ほぼ人手をかけることなく稼働している。仕掛品や部材の工程内での位置、設備の稼働状況、作業者の配置は、IoTやウェアラブルによってリアルタイムに収集、監視され、人工知能によって予防診断と計画に沿った段取り替えが迅速に行われ、高い稼働率と品質を維持している。
- IoTの活用と生産工程の自律化を進めた結果、お客様毎に異なる仕様の製品をマス・プロダクション(同一品種を大量に生産)する場合と同じ納期、コストで生産できるようになり、市場での競争力が高まった。
- 生産設備は、人工知能が過去の実績から習得したノウハウを使って動作の最適化と生産効率の向上、つまり「カイゼン」を自律的に行っている。
- 材料や燃料などの市況、計画に対する予実、工場の稼働状況や実績は、グローバルでリアルタイム・一元管理され、人工知能を使って全体で需給バランスをダイナミックにコントロールし、調達のタイミングや場所、コストや生産効率の最適化が図られている。
- 工程や部材に問題が生じた場合は、工程全体の監視情報や過去の対応事例を人工知能が分析し、各工程の制御レシピを自動変更したり、現場のエンジニアにアドバイスを行ったりしている。
- 営業
- 営業目標の進捗やお客様情報は、全てオンラインで共有されており、その他必要な情報はほぼ全て、どこからでもオンラインで手に入れることができる。
- 製品情報は、動画や3Dデータの電子カタログで提供されている。また、提案書も電子ペーパーや3Dフォログラムを利用することが当たり前となっており、印刷して提供することはほとんどない。
- お客様は、Webで提供される CADを使い、カスタマイズを直接図面に反映させ、それを注文できる。
- お客様からの依頼に応じた試作品やサンプルについては、営業拠点に設置されている3Dプリンターで出力し、提供している。また、お客様の3Dプリンターから出力できる。
- 営業は、お客様へのコンサルティングや技術的相談に対応することが、主要な業務となっている。このような業務を支援するため、人工知能による営業アドバイザーが提供されるようになった。営業は、音声で営業アドバイザーと会話することができる。営業アドバイザーで解決できない場合は、人間のスペシャリストの支援を仰ぐことができる。これにより、スペシャリストは、高度な技術的問題に対処することに専念できるようになり、お客様サービスや営業対応の質と効率を大幅に高めることができるようになった。
- 営業アドバイザーの機能の一部は、登録されたお客様もインターネットを介して使えるようになっている。このサービスは、お客様の事務的な応対にも応えられるようになっており、営業担当者の業務効率を高めることに貢献している。
- お客様との全ての取りは、担当営業や担当エンジニアにも報告される。このようにして、営業アドバイザーと担当営業が、協働することで、営業活動の効率と品質、スピードの向上を図ることができるようになった。
- 契約手続きや請求等の事務処理は、全てが電子化されているため、営業はその確認を行うに留まっている。
- コールセンターは、人工知能を使ったスマート・アシスタントがお客様との音声で応対している。機微に触れる対応が必要と判断された場合は、人間のエージェントにエスカレーションしている。
- 情報システム
- インフラストラクチャーとプラットフォーム
- パブリック・クラウドにて構築、但し、コンプライアンスの観点から、主要なシステムは、データセンターのサービスを使用している。
- クラウド・サービスやネットワークの運用管理は、人工知能に任せているため、情報システム部門は、運用結果やインシデントへの対応結果の報告を確認することに留まっている。
- オフィスのネットワーク・インフラは全て無線化されている。
- プリンターは、各事業所や工場に設置されたプリント・センターに置かれている。営業拠点には、お客様対応のため、数台の紙用プリンターが設置されているが、お客様とのやり取りのほとんどはデジタル・データで行われるため使われることは少ない。
- アプリケーション
- ERPなどの基幹系業務、経費精算、文書・表作成や情報共有のためのオフィス・アプリケーション、電子会議や電子メール、ワークフロー、アナルティクスなどは、SaaSを利用している。
- 独自性の高い業務については、PaaSを利用し、社内要員でアジャイル開発している。また、開発にあたって専門的なアドバイスは、人工知能による開発アドバイザー・サービスを使用し、開発品質や生産性を向上させている。
- 業務プロセスが複雑な機能や変更が多い業務については、人工知能やBRMSを使用し、現場のユーザーがアプリケーションを開発・保守している。IT部門は、複雑なシステムや大規模なシステムの開発を請負うと共に、基幹システムとのAPIや開発ツールの整備、運用を行っている。
- 社内で使うアプリケーションには、自社開発とSaaSがあるが、これらは、社内マーケット・プレイスから利用できる。
- IT部門の機能と役割
- 戦略・企画
- IT戦略の策定やEAの整備、標準化。
- システム・アーキテクチャーの設計と技術評価、社内適用方法の検討。
- IT適用の計画立案と実行管理
- アプリケーション提供・データ管理
- 社内で使用するアプリケーションの開発、SaaSの選定と自社開発システムとの連携、それらをユーザーに提供する社内マーケット・プレイスの整備と運用。
- 人工知能の知識ベースの整備と適用。
- 業務データの保全(国内データセンターでのバックアップやログの管理)。
- コンプライアンスやガバナンスへの対応
- システム利用・運用監視
- ユーザー・サポート
- 社内ヘルプデスク
- ユーザー教育
- IT活用コンサルティング
- 社内マーケティング
- 戦略・企画
- インフラストラクチャーとプラットフォーム
さて、こんな未来は、やってくるのだろうか。たぶん夢ではないただろう。ドイツが産官学で取り組むインダストリー4.0、米国GEのインダストリー・インターネット、インドのデジタルもの作りの取り組みなど、ここで紹介したようなことを先取りするような取り組みが、今急速に進んでいる。
一方、我が国の取り組みは、個々の企業に個別最適化された独自のカイゼン活動であり、企業を越え、あるいは、国を超えての取り組みは、見えてこない。テクノロジー・イノベーションも見えてこない。ITがそうであるように、もの作りでも世界でも、我が国は存在感を失いかねない事態に直面している。
時代は、IT(Information Technology)を越えて、より広範な領域にテクノロジーを組み込んで行くDT(Digital Technology)を求めつつある。このパラダイム・シフトに対応することが、ITビジネスの次のステージなのだろう。
2015年2月4日(水)より開講するITソリューション塾【第18期】の募集に参加しませんか?
このブログでも紹介させて頂いたテクノロジーやビジネスに関する最新のトレンドをビジネスにどう結びつけてゆけば良いのかを考えてゆきます。そのための提案やビジネス戦略・新規事業開発などについても解説します。また、アジャイル開発でSIビジネスをリメイクした実践事例、クラウド時代のセキュリティとガバナンスについては、それぞれの現場の第一線で活躍される講師をお招きし、生々しくそのノウハウをご紹介頂く予定です。
きっと貴重なきっかけを手に入れられると思います。どうぞご検討ください。
詳しくはこちらをご覧下さい。また、パンフレットもこちらからダウンロードできます。
最新ITトレンドとビジネス戦略【2014年12月版】を公開しました
今回は解説文を大量に追加しました。プレゼンテーションの参考にしてください。また、新しいトレンドを踏まえ、プレゼンテーションを13ページ追加しています。無料にてご覧いだけます。
【2014年12月版】(209ページ)の更新内容は次の通りです。
- 「クラウド・コンピューティング」に解説文を追加しました
- 「仮想化とSDI」を「ITインフラと仮想化」に変更し、プレゼンテーションを大幅に追加しましたました。
- 「ITインフラと仮想化」に解説文を追加しました。
- 「IoTとビッグデータ」に解説文を追加しました。
- 「IoTとビッグデータ」に3Dプリンターの解説を追加しました。
- 戦略について一部チャートを変更し、資料を追加しました。
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拙著「システムインテグレーション崩壊」が、「ITエンジニアに読んでほしい!技術書・ビジネス書大賞」にノミネーションされました。お読み頂きました皆さんに感謝致します。
「システムインテグレーション崩壊」
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