偉い人がいると発言しづらい。
会議や打ち合わせ、職場の中で、このように感じられている方もいらっしゃるはずです。このように感じるのは、人間が進化の過程で、「順位性(Dominance hierarchy)」を獲得してきたことと関係があります。
順位性すなわち序列を作ることは、厳しい自然環境の中で、個体が生存するために集団を作ることが有利だったためであり、その集団の秩序を保つために必要だったからです。人間は、この順位性を極め、社会を構成し、進化の頂点に立つことができました。
順位性は、生物としての人間の本性に根ざしたもので、いいとか悪いという話しではなく、自然なことなのです。そのため、無意識のうちに、自分と他者との関係の中で序列を作ってしまいます。
ただ、社会の変化が速く、複雑性を増しているいまの時代にあっては、このことが、生存を脅かすことにもなりかねません。
心理的安全性に支えられた組織学習の重要性
2003年1月、スペース・シャトル「コロンビア号」の爆発事故で、7人の宇宙飛行士の命を落としました。地球に帰還すべく大気圏に再突入する際、発射時に外部燃料タンクの断熱材が剥落していたことで、大気圏突入の際の高熱に耐えきれず、機体を破壊してしまったからです。
打ち上げの段階で、NASA(アメリカ航空宇宙局)のエンジアであるロドニー・ローシャは、機体が損傷している事実を知ります。すぐにエンジアを中心に「剥片調査チーム」が結成され、リンダ・ハムが議長を務める「マネジメント・チーム」で、話し合いが行われました。
しかし、特別なアクションはとらないという結論に至ります。しかし、大きな問題になると考えた「剥片調査チーム」は、エンジニア部門の上司に願い出ました。そして、国防省に依頼し「飛行中のコロンビア号を撮影してもらいたい」と発言しています。しかし、ハム議長には直接、伝えませんでした。
ロドニー・ローシャは、その後の会議でも、ハム議長が機体の安全性を強調したため、疑問がありながら発言を控えました。そして、爆発という最悪の事態が起きたのです。
ローシャは事故後の調査で、「エンジニアは自分よりずっと高いレベルの人にメールを送ってはいけないと常々言われていた」と説明しています。また、会議の発言については「僕にはそんなこと強硬に主張することはできない。それは、僕は下っ端だからだ。ハム議長は雲の上の人だった」とふりかえっています。
この辺りのことは、この事故を検証した『決断の本質』(マイケル・A・ロベル 英治出版)に詳しく書かれています。
爆発の直接的な原因は「断熱材の剥落」ではありましたが、組織の中での序列意識、つまり下からの重要な情報を上に伝えられないというNASAの組織風土が、問題の本質であったことをコロンビア号事故調査委員会は報告書に残しています。
高度で複雑なシステムを維持するためには、様々な知見を持つ人たちの多様性を意思決定に結びつけていくことが、極めて重要であるということをこの事故は教えてくれています。順位性という人間の自然な性向が、結果としてこのような事故を招いたと言うこともできます。複雑性を増し、不確実性が高まるいまの時代はこれをあえて意識し、順位性がもたらす弊害を解決していかなければなりません。
「心理的安全性(psychological safety)」が、注目されるのは、このような時代背景があるからでしょう。多様な専門性や経験値、視点を持つ人が、チームになって、それぞれに意見を出し合い、問題空間を広範に捉え、最適解を創り出すことが、大切な時代になったのです。
「心理的安全性」の提唱者であるハーバード・ビジネススクール教授エイミー・C・エドモンドソン(Amy Claire Edmondson)は、コロンビア号爆発事故を2年以上に渡って調査しています。エドモンドソンは、人と人がチームになって仕事を通しての学習を繰り返し、成果をあげることの重要性を解きました。彼女は、これを「チーミング」(teaming)と呼んでいます。
「チーミング」で重要とされているのは、「組織学習」です。学びのないチームは、「同じこと」や「同じ失敗」を繰り返し、時代の変化に対応できず、なかなか成果をあげられません。そんな「チーミング」を有効に機能させるためには「心理的安全性」が欠かせないと、エドモンソンは述べています。
こんなことを言っても受け入れてはもらえない、変なことを言って自分の評価を下げてしまうかも知れない、先輩や上司の顔を潰すかも知れない、畏れ多くて話なんかできない、話しは聞いてもらえるけれども結局はいままで通りで、何も変わらない。だったら伝えてもムダだよね。
チームのメンバーが、このようなことを考えてしまうようでは、ひとり一人が学びを通じて、新たな知識や知見を得ても、これを共有し、チームで活かすことができません。
チームの他のメンバーが自分の発言を拒絶したり、罰したりしないと確信できる状態
このような組織風土があればこそ、序列を飛び越えて、自分の学んだことや考えたことをチームの他のメンバーに躊躇無く伝えることができ、チームメンバー全員が共有できます。これが「組織学習」となるのです。
DXの成功の鍵は組織学習ができるかどうかにかかっている
DXの成功の鍵は、この「組織学習」ができるかどうかにかかっています。
デジタルが前提の社会に適応するために会社を作り変えること
DXとは、そんな取り組みです。デジタル技術を使うことが目的ではありません。アナログ前提の時代に作られ、疑問を持つことなく当たり前だと無批判に使い続けている業務の仕組みやビジネス・モデルを、デジタル前提の社会になって変わってしまった常識に照らし、最適なやり方に作り変える取り組みです。
アナログ時代のやり方は、その時代にとっては最適だったかもしれません。しかし、デジタル時代の人々の思考や行動の様式、判断基準は、かつてとは違います。かつては10の手間をかけなくてはできなかったことが、1の手間でできる手段も登場しています。AIの進化は、機械と人間の役割分担を大きく変えてしまいました。
アナログ時代のやり方を変えることなくデジタルを使っても、十分な成果を出すことができません。根本的に、本質的に、デジタルに最適化されたやり方に作り変えることができなければ、時代の変化に取り残され、衰退してしまうことは、歴史を見れば明らかです。
時間感覚の変化こそデジタル時代の本質的変化
デジタルが前提の世の中になって変わってしまったことは沢山ありますが、最も大きな変化は「時間感覚」ではないでしょうか。あらゆるモノやヒトがネットでつながり、情報が瞬時にやり取りされる時代になり、ものを買うにも、情報を手に入れるにも、コミュニケーションをするにも、全てはネットを介して行われます。アナログ時代の時間感覚とは、二桁も三桁も変わってしまいました。
時間感覚の変化は、無駄なく、効率よく、いち早くが、人々の行動の基準として重要性を高めています。様々な社会の出来事や経済の動きも瞬時に世界に伝わり、あっという間に世界が変わってしまいます。社会の複雑性は高まり、変化するスピードも加速し、未来を予測することも難しい時代です。
正確に未来を予測することができないのなら、変化に俊敏に対処する能力を手に入れるしかありません。そのような能力を獲得することが、生き残り、成長していくための前提です。時間感覚の変化こそ、アナログ時代からデジタル時代にかけての本質的な変化ではないかと思います。
デジタル技術を駆使しても、仕事のやり方や組織のあり方を根本的に作り変えなければ、いまの時代にふさわしいスピードを手に入れることはできません。例えば、SlackやTeamsを使ってコミュニケーションの手段を高速化しても、稟議決済はアナログ時代のやり方のままに、月1回の経営会議を通さなければ、行動を起こせないとなると、結局は、アナログ時代の時計のままでしかありません。また、ネットワークやAIを駆使して、時々刻々変化する事象を正確に捉えることができても、上司の判断を得るためには、報告書を作成して、会議を開き、判断を仰がなければならないとすれば、絶好のタイミングを逃すか、危機的な状況を招きかねません。
デジタルを使えば使うほど、この乖離が顕著になります。言わば、経営の動脈硬化です。このようなことを放置すれば、そこで働く人たちの能力を十分に活かすことができず、企業は疲弊し競争力を失ってしまいます。
デジタル化は企業を衰退させる
日本企業が国際的な競争力を失ってしまったのは、海外とくに米国からもたらされるデジタル・ツールやデジタル・サービスを使うことには熱心ではあっても、それら製品の背景にある思想やビジネス・プロセスの変革を無視して、効率の悪い使い方を行い、十分にその価値を引き出せないからです。
例えば、次のようなことです。
- MA(Marketing Automation)ツールを導入しても、案件を発掘するチームであるデマンドセンターを作ることなく、ただの広告宣伝自動化ツールとしてしか使っていないために、マーケティングツールとしての効果を十分発揮できない
- ERPパッケージは、本来、業務変革を加速するためのツールとして登場しました。しかし、ERPパッケージを導入しても、既存業務のやり方に合わせるために、カスタマイズやアドオンを膨らませ、膨大なコストを支払っています。
- セルフサービスの仕組みとして機能を充実させ続けているクラウド・サービスを導入しても、外注先に丸投げして、自分たちで使いこなすことをせず、多大なコストを流失させ、俊敏性を損なっている
このような背景や思想を無視し、カタチばかり真似ているわけです。デジタル・ツールを使えば使うほど、次のような事態を招いています。
- ムダな作業を増やし、生産性を低下させている
- ツールの機能を生かし切れず、コスパの悪い使い方になっている
- ツールの機能や使い方に拘束され、現実との乖離を拡げて、現場のストレスや負担を増長している。
結果として、ツールを使うことに経営資産を消費してしまい、業績に貢献できない、あるいは、貢献しても投資に見合わないという時代を招いています。これでは、背景や前提を当然のこととして理解して使っている本家本元にかなうはずもなく、労働生産性の低下を招き、企業を衰退させているわけです。
DXもまた同じようなことになっています。デジタルを使うことが目的化してしまい、それらを使いこなすにふさわしい仕事のやり方や組織の仕組み、働き方に変えようという取り組みと同期していません。いや、そういう考えに至っていないとも言えるでしょう。これでは、DXなどという取り組みは、百害あって一利無しです。
心理的安全性に支えられた「組織学習」が欠かせない時代
この事態から抜け出すには、心理的安全性に支えられ、多様性を積極的に取り込める「組織学習」の文化を根付かせなくては、経営の動脈硬化を改善することはできません。
過去の常識、暗黙の了解、上司や経営者の顔色といった暗黙の抑圧から解放され、それぞれの知見や感性で、率直に議論できる環境なくして、本質的で根本的な変革はできません。
そういう取り組みを「DX」と呼ぶかどうかは、どうでもいいことです。ただし、このような取り組みはいずれにしても必要であることです。ならば、このような解釈を「DX」という言葉に与え、これを旗印に変革に取り組むことで、従業員の意識のベクトルを同じ方向に向けさせることは、意味があることかも知れません。
- ツールの機能や性能にとらわれることなく、その背景にある思想や文化も学び、これに合わせてやり方や組織の変革にも取り組んでいく。
- 過去の成功の方程式に固執することなく、多様な意見を積極的に取り入れて、自分たちの目の前に拡がる問題空間を広範に多角的に捉える。
- 過去のやり方が通用しない以上、ベストプラクティスはなく、用意された正解もないわけで、やってみて、その結果から議論して、自分たちの正解を自分たちで作る。
そんな思考や行動の様式なくして、どんなに素晴らしいデジタルを駆使しても、むしろ企業の動脈硬化は進み、衰退させてしまうことを心得ておくべきでしょう。
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2022年10月3日紙版発売
2022年9月30日電子版発売
斎藤昌義 著
A5判/384ページ
定価2,200円(本体2,000円+税10%)
ISBN 978-4-297-13054-1
目次
- 第1章 コロナ禍が加速した社会の変化とITトレンド
- 第2章 最新のITトレンドを理解するためのデジタルとITの基本
- 第3章 ビジネスに変革を迫るデジタル・トランスフォーメーション
- 第4章 DXを支えるITインフラストラクチャー
- 第5章 コンピューターの使い方の新しい常識となったクラウド・コンピューティング
- 第6章 デジタル前提の社会に適応するためのサイバー・セキュリティ
- 第7章 あらゆるものごとやできごとをデータでつなぐIoTと5G
- 第8章 複雑化する社会を理解し適応するためのAIとデータ・サイエンス
- 第9章 圧倒的なスピードが求められる開発と運用
- 第10章 いま注目しておきたいテクノロジー