社会の変化をふり返れば、2000年あたりを境にして、大きな価値観の転換が始まったように思います。それは、「安定性(Stability)」から「俊敏性(Agility)」へと価値観の重心、すなわち何を優先するかの基準が変わったことです。
「価値観の転換」を象徴する出来事の1つが、2001年9月11日に起こったアメリカ同時多発テロ事件です。社会の不確実性が高まり、予測困難な時代になったことを私たちは思い知らされました。このあとに注目されるようになった言葉が、VUCAです。
VUCAとは、Volatility(変動性)、Uncertainty(不確実性)、Complexity(複雑性)、Ambiguity(曖昧性)の頭文字を並べたもので、1990年代後半にアメリカ合衆国で軍事用語と使われるようになりました。それが、ビジネスの用語に転用され、時代を象徴する言葉として、定着していきました。
「VUCA=不確実性が高く予測困難な社会」にあっては、「未来を正確に予測」することはできません。そんな刻々と変化する状況に俊敏に対処するための方法として、「OODAループ」が注目されたのも、この頃のことです。
ITのトレンドにも、こんな時代の趨勢を反映したテクノロジーやメソドロジーが、登場しています。例えば、つぎのようなことです。
クラウドの登場:「クラウド・コンピューティング」という言葉が登場したのは、2006年ですが、それ以前から、「クラウド的なサービス」が登場しています。例えば、1997年のHotmail、2000年のSalesforce.comなどで、マルチテナント、セルフサービス、Webスケールといった、クラウドの特性を備えたサービスが登場しています。
ダウンサイジングとオープン化:1980年代にビジネスの現場で広く使われ始めたPCは、1990年代に入り一人一台の時代になりました。ミニコン、オフコン、エンジニアリング・ワークステーションと呼ばれる中小規模のコンピューターが、大型のメインフレームを代替しつつありました。さらに、これらはPCサーバーに移り、オープン化と言われる流れが加速します。メインフレーム/ホスト・コンピューターの時代は、終焉を迎えました。これによって、柔軟、迅速なIT活用の筋道が作られました。
クライアント・サーバーからWebシステム:1990年代初頭に黎明期を迎えたインターネットは急速に普及しました。その起爆剤になったのが、1995年に登場したWindows95です。ブラウザーやTCP/IPが標準で搭載されるようになり、インターネットの利用が容易になりました。これはもうひとつの大きな変化を起こしました。標準搭載のブラウザーを社内の業務システムとして使う動きです。それ以前は、大規模なデータの処理や保管は、サーバーで行い、UIやデータの加工編集などの小回りの利くところは、PCをつかうというクライアント・サーバーが普及していたわけですが、「タダでついてくるブラウザーでも、同様なことができそうだ」となり、開発や保守のしやすさやコストの安さ、変更の容易性もあって、Webアプリケーションへの移行が進みました。
アジャイルソフトウエア開発宣言:2001年に、軽量ソフトウェア開発手法(と当時呼ばれていた)分野で名声のある17人が一同に会し、彼らがそれぞれ別個に提唱していた開発手法に共通する価値観を議論し、その結果を「アジャイルソフトウェア開発宣言」(Manifesto for Agile Software Development) という文書にまとめ、公開しました。いまや当たり前となった、「アジャイル開発」の起点とも言える出来事です。
これらに共通する価値観は、「俊敏性」です。「VUCA=不確実性が高く予測困難な社会」にあっては、「未来を正確に予測」することはできません。ならば、目前の変化をいち早く掴み、その時々の最適を実行し、高速に修正・改善を繰り返すことができる圧倒的なスピードがなければ、こんな社会の変化に対応できません。上記に紹介したITトレンドに関わるエピソードも、そんな時代の求める価値観を反映した出来事です。
VUCAの時代になったいま、「安定性」から「俊敏性」へと価値観の転換を図らなければ、事業の存続や企業の成長はありません。ITのトレンドもまた、そんな時代の趨勢を反映しています。
- ウォーターフォール開発からアジャイル開発へ
- オンプレミスからクラウド・コンピューティングへ
- モノリシック・アーキテクチャーからマイクロサービス・アーキテクチャーへ
社会の求める価値観が変わったことで、それに応じたやり方が受け入れられ、定着していきました。どちらが優れているのとか、あるいは生産性が高いのかといった議論が、未だなされているのですが、これはまったく的外れな議論です。
このような変化を受け入れるには、その前提となる価値観を企業の文化や風土に取り込む必要があります。例えば、「安定性」に強く支配される文化や風土を持つ企業が、アジャイル開発に取り組んでも、うまくはいきません。なぜなら、アジャイル開発は、システム開発の全てを、すなわち進捗や品質の管理を自律した現場のチームに委ねることを前提としているからです。また、現場との継続的かつ対等な対話が重視されます。
「安定性」を重視して、階層的な組織の中で行動をきめ細かく管理し指示をする、全ての意思決定は、リスクを徹底して排除するために稟議にかけるという組織風土の中では、「アジャイル開発」の手法を駆使しても、「俊敏(アジャイル)なシステム開発」は実現しません。クラウドやマイクロサービスも同様で、前提となる価値観の転換なくして、実践で十分な成果をあげることは難しいでしょう。
世の中に、「絶対」はありません。ものごとには、常に一長一短があり、プラスとマイナスの重ね合わせで、どちらが「相対」的に価値が高いかを評価して選択することが大切です。その時に、どちらの価値観を基準にして相対化するかを決めなくてはなりません。つまり、いかなる「あるべき姿」を実現するかで、どちらのやり方が、相対的に有利であるかを判断すると言うことです。
もし、「安定性」を優先するなら、ウォーターフォール開発、オンプレ、モノリシックが、相対的に有効かも知れません。しかし、「俊敏性」を優先するなら、アジャイル開発、クラウド、マイクロサービスは、現実的かつ有効な選択肢です。
「俊敏性」を優先し、それにふさわしいやり方を選択したとしても、「絶対」はありませんから、様々な課題が生じます。ならば、それをどのように解消すればいいかを考え、対策を講じる必要があります。
例えば、「俊敏性」を優先し、クラウドを使うのなら、「通信障害やクラウド・ベンダーの障害」を想定して、異なるキャリアの複数回線を使いアベイラビリティ・ゾーンを分けて冗長化構成にする、複数のクラウド・プロバイダーに分散する、コンテナ化してサービスの可用性を高めるなどの対策を施すことなどで、この課題を解決できるでしょう。
ITのトレンドは、いままさにこのような社会の変化、すなわち「俊敏性」への移行に伴う課題解決に向けて、様々なサービスやテクノロジーが、急速に発展、普及しています。
いまだ「安定性」を絶対的な正義であると考えてシステム構築をしている企業も少なくありません。それに外れることは許されず、上記のような課題は、「あってはならないこと」となります。
「安定性」から「俊敏性」へと、社会の求める価値観が転換しつつあるいま、それにふさわしいやり方を許容できなければ、時代の趨勢から取り残されてしまいます。
この変化は、ITビジネスのあり方にも大きな転換を強いることになります。
「ITシステムを作る」から「ITサービスを提供する」への転換
ユーザーは、ITシステムを作り、これを納品してもらうことでは、価値を得られません。作られたシステムによって提供されるITサービスを使うことで、始めてビジネス上の価値を手に入れることができます。これは、今も昔も変わりません。しかし、ITサービスを使うためには、かつては、ITシステムを作らなくてはなりませんでした。それが、SI事業者/ITベンダーの事業収益の源泉になっていました。しかし、クラウド・サービスやオープンソースの充実と普及により、「ITシステムを作らずに、ITサービスを実現する」ことができるようになりました。「俊敏性」を優先するならば、この転換も無視することはできません。
「時間とコストを掛けてITシステムを作ることなく、短期間にコストを掛けずにITサービスを実現する」
「実現したITサービスをユーザーニーズや社会環境の変化に即応して、俊敏に改善を繰り返す」
これができる環境が整いつつあり、ITビジネスの需要もまた、そちらにシフトするのは、当然の成り行きです。その帰結として、物販や工数の提供という「安定性」志向のビジネス・モデルは、伸び代を失うことになります。
DXとは、我々が、長い間、当然のこととして受け入れてきた「安定性」の価値観とこれを実践するため作り上げられた会社の仕組みを、「俊敏性」のそれへと作り変える取り組みです。
上記に紹介した通り、2000年ごろのITトレンドは、私たちの日常やビジネスをデジタル前提に変えてしまうものでした。例えば、家族や友人達と旅行へ行こうとするとき、どこへ行くかを探す、美味しそうなお食事処を探す、ホテルを予約する、交通を調べて手配するなどをまずはネット/デジタルを介して行い、その上で旅行というリアルな体験を楽しむのは当たり前になりました。もはやデジタルは、便利な道具の域を超えて、リアルを包括する存在へと変わってしまいました。
人手に多くを依存していた社会システムが、デジタル前提となり、インターネットを介して全てがつながり、変化に過敏に反応する世の中に変わってしまったわけで、VUCAとは、このような社会の変化を表現した言葉として、多くの人の共感を得るようになりました。
当然、お客様との係わり方、収益のあげ方、働き方、業務の手順、組織や意思決定のあり方なども、「デジタル前提」の世の中に適応するために作り変えなくてはなりません。当然に「デジタルという手段」を駆使することも必要です。
「デジタル前提の社会に適応するために、デジタルという手段を駆使して、会社を作り変える」
DXとは、このための取り組みだと言えます。
注意すべきは、デジタルを使うことが目的ではないことです。あくまで手段の1つです。働き方や雇用制度、組織のあり方や体制、業務の手順や意思決定の方法なども変えなくてはなりません。デジタルを使うことではなく、「俊敏性」を企業活動の価値観に据えることが目的です。
DX(デジタル変革)という「変革」の本質はここにあります。すなわち、「安定性」から「俊敏性」を重視する会社へと、自分たちを作り変える取り組みです。当然、過去のやり方の否定や、行動/思考様式の転換も求められるわけで、抵抗する人たちも多いはずです。
人は変わりたくないわけではない。他者に変えられたくないだけ。
MITのピーター・センゲは、指摘しています。DXもまた、この現実に向きあわなくてはなりません。技術の問題としてではなく、人間の問題として捉え、価値観を変革することの重要性を共有し、自らの意志で変えようという意欲を引き出すことが大切です。
トップダウンで、「DXに取り組みなさい」と下命し、DX推進組織に丸投げという、なんとも雑な「DX」に取り組んでいる企業もあるようですが、これではうまくいきません。経営者自らが、この価値観の変化を受け入れ、安定性に偏った自分たちの価値観に危機感を持つことです。そして、俊敏性を許容し、それを体現できる自分たちの未来のビジョンを示すことこそ、DX推進の一丁目1番地ではないでしょうか。
【最終回・8月24日】新入社員のための「1日研修/1万円」・最新ITトレンド
あと1回(8月24日)を残すのみとなりました。まだ参加枠の余裕はあります。よろしければ、お申し込み下さい。
最新ITトレンド研修
社会人として必要なデジタル・リテラシーを手に入れる
ChatGPTなどの生成AIは、ビジネスのあり方を大きく変えようとしています。クラウドはもはや前提となり、ゼロトラスト・セキュリティやサーバーレスを避けることはできません。アジャイル開発やDevOps、マイクロ・サービスやコンテナは、DXとともに当たり前に語られるようになりました。
そんな、いまの常識を知らないままに、現場に放り出され、会話についていけず、自信を無くし、不安をいだいている新入社員も少なくないようです。
そんな彼らに、いまの常識を、体系的にわかりやすく解説し、これから取り組む自分の仕事に自信とやり甲斐を持ってもらおうと、この研修を企画しました。
【前提知識は不要】
ITについての前提知識は不要です。ITベンダー/SI事業者であるかどうかにかかわらず、ユーザー企業の皆様にもご参加頂けます。
新入社員以外のみなさんへ
新入社員以外の若手にも参加してもらいたいと思い、3年目以降の人たちの参加費も低額に抑えました。改めて、いまの自分とこれからを考える機会にして下さい。また、IT業界以外からIT業界へのキャリア転職された方にとってもいいと思います。
人材育成のご担当者様にとっては、研修のノウハウを学ぶ機会となるはずです。教材は全て差し上げますので、自社のプログラムを開発するための参考にしてください。
書籍案内 【図解】コレ一枚でわかる最新ITトレンド 改装新訂4版
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【特典2】本書で扱うには少々専門的な,ITインフラやシステム開発に関わるキーワードについての解説も,PDFでダウンロードできます!
2022年10月3日紙版発売
2022年9月30日電子版発売
斎藤昌義 著
A5判/384ページ
定価2,200円(本体2,000円+税10%)
ISBN 978-4-297-13054-1
目次
- 第1章 コロナ禍が加速した社会の変化とITトレンド
- 第2章 最新のITトレンドを理解するためのデジタルとITの基本
- 第3章 ビジネスに変革を迫るデジタル・トランスフォーメーション
- 第4章 DXを支えるITインフラストラクチャー
- 第5章 コンピューターの使い方の新しい常識となったクラウド・コンピューティング
- 第6章 デジタル前提の社会に適応するためのサイバー・セキュリティ
- 第7章 あらゆるものごとやできごとをデータでつなぐIoTと5G
- 第8章 複雑化する社会を理解し適応するためのAIとデータ・サイエンス
- 第9章 圧倒的なスピードが求められる開発と運用
- 第10章 いま注目しておきたいテクノロジー
神社の杜のワーキング・プレイス 8MATO
8MATOのご紹介は、こちらをご覧下さい。