デジタル・ビジネス、デジタル戦略、デジタル・トランスフォーメーションなど、「デジタル」という言葉を目にしない日はありません。しかし、なぜこれほどまでに、デジタルという言葉が注目されているのでしょうか。それには、3つの理由があります。
変化に対する迅速・柔軟な対応力を獲得できるから
私たちが直面しているVUCA(不確実性が高く、将来を予測できない社会)に対処するには、圧倒的なスピードが必要です。「スピード」とは、社会環境や顧客のニーズの変化に、直ちに適応することであり、迅速な経営判断と柔軟な業務プロセスの変更ができなくてはなりません。デジタル化は、そのための土台となります。
例えば、カレー粉は、カレーの香りや味わいしか作れませんが、カレーの香りや味わいは、クミン、オレガノ、ターメリックというスパイスの組合せでも作れます。ただ、辛味はありませんから、辛くしたければレッドチリペッパーを入れ、香りに深みを出したければ、カルダモンを入れるなど、スパイス単位で、柔軟にアレンジができます。また、クミンは、ラム肉と相性が良く、これで炒め物を作れば、カレーとは違う料理にもなります。
このように基本的な要素に抽象化して扱えば、その組合せを変えることで、様々に応用がききます。
デジタル化は、カレー粉を元の要素であるスパイスに分解するように、業務の機能やプロセスを要素分解し、関連性に基づいてレイヤ構造化することです。例えば、一番下のアプリケーションは、業務ごとに異なる手順に対応し、その上のミドルウェアは、データ管理や個人認証など、様々なアプリケーション共通で使う機能を、OSは、通信やストレージなどのコンピューターを制御する機能を提供します。最上位のコンピューターになると、0と1のビットデータとして扱われますから、下位レイヤーのいかなる処理でも受け付けます。
「販売管理」や「生産管理」、「会計管理」のシステムは、料理です。つまり、「カレー」、「ハヤシライス」、「肉じゃが」です。しかし、牛肉やタマネギなどの材料、あるいは、切るや煮るなどの手順は、共通の要素です。調味料を変えれば、それぞれの料理ができあがります。
このようなレベルに抽象化しておけば、家族の希望で料理を直ぐに変更でき、いまある食材や調理方法を流用し、新たな食材や調理方法を組み合わせ、迅速、柔軟に新しい料理が作れます。
デジタル化とは、このような特性を業務や経営に組み入れ、変化に対する迅速・柔軟な対応力を獲得するための取り組みです。例えば、対面での接客販売しかやっていなかった企業が、コロナ禍でオンラインでの販売を余儀なくされたとしましょう。販売管理や顧客管理、会計管理や在庫管理などの業務プロセスがデジタル化されていれば、それらはそのまま使い、接客や決済の機能のみをオンライン対応すれば、直ぐに対処できたはずです。属人化したアナログなやり方に依存していたならば、全てのプロセスを1から作らなくてはなりません。
また、デジタル化しておけば、業務の状態やその変化をリアルタイムに把握でき、的確な判断が下せます。これに自動化のプロセスを組み合わせれば、人間が介在することなく迅速に対処することができるようになります。
利用者の自由度を高められるから
ZoomやTeamsを使えば、どこからでも打ち合わせに参加できます。デジタル化されたワークフローを使えば、紙の書類に捺印しなくても、承認プロセスをすすめることができます。
もちろん、実際に出社した方が、仕事が捗る場合もあるでしょう。特に、アイデアを出し合うディスカッションやチーム・ビルディングのための研修などは、人がリアルに集らなければ、効果的とは言えません。
Uber Eatsを使えば、お気に入りのレストランの料理を自宅に居ながらにして食べることができます。しかし、食事だけではなく、レストランの雰囲気を楽しみたければ、実際に出向かなければなりません。
何を買いたいかが決まっているならば、Amazonで買えば手間がかかりません。でも、迷っているときは、実際に店舗に行って、あれこれ見て確認したいと思うはずです。
デジタル化によって、出社しなければ仕事ができない、レストランに行かなければその店の食事を食べることができない、買いたい物は店に行って買わなければならないという常識は変わり、私たちの働き方や行動の自由度は高まりました。
中国IT大手のアリババが2016年から始めた食品スーパーの「盒馬鮮生(フーマーシェンシェン)」は、店舗から3キロ以内の場所であれば、最短30分で配送してくれます。例えば、仕事帰りに生鮮食品を店舗で見定め、持ち帰ることもできますが、スマホからそこに付けられたバーコードを読みとって注文すれば、商品を家まで届けてくれます。店から家に帰って食材を受け取り、自分で調理することもできます。また、それを店で調理してもらって食べて帰ることもできます。デジタルが、顧客の自由度を高めてくれる典型的な事例と言えるでしょう。
現金を持ち歩かなくても買い物ができ、映画館に行かなくても映画を見ることができ、相手がそばにいなくてもお互いの顔を見ながら会話ができます。必要な情報は、検索するだけで、直ぐに手に入り、動画や画像、他人の意見やランキングなどを見ることで、広範に情報を収集し、判断材料を幅広く手に入れられるようになりました。
何が最適かは、人によって、あるいは状況によって様々です。しかし、デジタル化される以前は、行動の選択肢も得られる情報も限られ、多くの制約が課せられていました。デジタル化は、そんな制約から私たちを解放し、自由度を高めてくれるのです。
イノベーションを加速できるから
20世紀前半に活躍した経済学者シュンペーターは、1912年に著した『経済発展の理論』の中で、イノベーションを「新結合(neue Kombination/new Combination)」と呼び、以下の5類型に分類しています。
- 新しい財貨の生産 プロダクト・イノベーション
- 新しい生産方法の導入 プロセス・イノベーション
- 新しい販売先の開拓 マーケティング・イノベーション
- 新しい仕入先の獲得 サプライチェーン・イノベーション
- 新しい組織の実現 組織のイノベーション
イノベーションとは、以上の5つに分類される変革を実現するための新しい「結合」であり、それは新しい価値の創造、社会での活用・普及につながり、社会的な新しい価値を生み出すプロセスだと説明しています。
シュンペーターは、「イノベーションは創造的破壊をもたらす」とも語っています。その典型として、イギリスの産業革命期における「鉄道」によるイノベーションを取り上げています。彼はこんなたとえでそれを紹介しています。
「馬車を何台つなげても汽車にはならない」。つまり、「鉄道」がもたらしたイノベーションとは、馬車の馬力をより強力な蒸気機関に置き換え多数の貨車や客車をつなぐという「新結合」がもたらしたものだという解釈です。
ここで使われた技術要素は、ひとつひとつを見てゆけば必ずしも新しいものばかりではありませんでした。例えば、貨車や客車は馬車から受け継がれたものです。また、蒸気機関も鉄道が生まれる40年前には発明されていました。つまり、イノベーションとは新しい要素ではなく、これまでになかった新しい「新結合」がもたらしたものだというのです。
また、イノベーションの結果としてもたらされるのが「創造的破壊」です。シュンペーターは「創造的破壊」について、次のように述べています。
経済発展というのは新たな効率的な方法が生み出されれば、それと同時に古い非効率的な方法は駆逐されていくという、その一連の新陳代謝を指す。創造的破壊は資本主義における経済発展そのものであり、これが起こる背景は基本的には外部環境の変化ではなく、企業内部のイノベーションであるとした。そして持続的な経済発展のためには絶えず新たなイノベーションで創造的破壊を行うことが重要であるとシュンペーターは説いた。(Wikipedia参照)
改めて整理すれば、「イノベーションとは、様々な要素の、これまでとは異なる新しい組合せによって、新しい価値を創造し、人々に不可逆的な行動変容をもたらすこと」だと言えるでしょう。
例えば、2007年に登場したiPhoneは、私たちの日常や社会を一変させ、もはやそれ以前に戻すことはできません。コロナ禍によって一気に普及したZoomによって、私たちのワークスタイルは激変しました。さらには、通勤に便利な都会から、地方に移住しようという人たちも増え、ライフスタイルの変化も起き始めています。これらは、イノベーションの典型的な事例です。
ただ、iPhoneは、新しい技術に頼ったわけではありません。2001年に登場したiPod、それ以前から使われていた携帯電話やPCなどの技術要素の「新しい組合せ」によって作られました。結果として、スマホの世帯普及率は80%を越え、スマホのない生活など考えられなくなりました。
Zoomもまたその要素技術の多くは最新ものではありません。テレビ会議システムは20年以上も使われています。Zoomがイノベーションたり得たのは、その組合せ要素のひとつとして大変優れた画像圧縮の技術が使われ、性能の低いPCヤスマートホンで、沢山の人が同時に会話できるようになったことであり、それを廉価に提供できたことです。コロナ禍という環境の変化と相まって、Zoomは、ユーザーの不可逆的な行動変容をもたらしたのです。
しかし、全ての新しい組合せが、イノベーションになるわけではありません。うまくいくだろうと思って新しい組合せを世に出しても、それが社会に受け入れられる保証はありません。ならば、試行錯誤して検証しなければなりません。
冒頭でも述べたとおり、デジタル化の本質的価値は、抽象化とレイヤ構造にあります。デジタル化によって、様々な要素の新しい組合せを容易に実現し、市場からのフィードバックを受けて、高速に改善や試行錯誤を繰り返すことができます。この特性が、イノベーションを加速するのです。
このような考え方は、インターネット上のサービスに留まらず、製造業でも適用が進んでいます。例えば、自動車や航空機などの開発で使われるMBD(Model-Based Development、モデルベース開発)と呼ばれる手法は、実物を試作するのではなくコンピューター上で試作し、条件や部品の多様な組合せを試行錯誤して検証し、実物の試作を減らし、開発の時間短縮とコスト削減を実現しています。これによって、コストをかけずに高速に試行錯誤を繰り返すことができるようになり、ものづくりにおけるイノベーションの加速にも貢献しています。
イノベーションの本質は、新しい組合せにより、不可逆的なな行動変容をもたらすことです。新しい技術やビジネス・モデルを生みだしても、人々の考え方や行動の変化をもたらさなければ、イノベーションでありません。新しい価値を生みだすだけであれば、それはインベンション(発明)です。iPhoneやZoomの事例からもわかるように、新しい価値だけでは、世の中を変えるイノベーションにはなり得ないのです。
- 変化に対する迅速・柔軟な対応力を獲得する
- 利用者の自由度を高める
- イノベーションを加速する
「デジタル」は、このような価値をビジネスにもたらします。
DXとは、このデジタルの価値をビジネスに取り込むための変革です。それは、旧来の仕事の手順や常識をそのままに、デジタルに置き換えれば、できるわけではありません。デジタル前提に、仕事の手順を根本的に作り変える、そのために考え方や行動様式を変えることができなければなりません。つまり、「デジタル技術を使うこと」ではなく、デジタル前提に、事業の目的や経営のあり方を再定義し、あるいは、組織の振る舞いや従業員の考え方や行動様式、つまり企業の文化や風土をも変えなくては、ならないということです。
先週のブログでも説明したように、社会は「成長」から「成熟」へと方向を変えつつあります。そんな成熟社会に企業が適応するには、成長を前提としたビジネスのあり方、あるいは働き方を作り直す必要があります。つまり、成長のためではなく、成熟社会で生き残るためです。デジタルを使うのはそのためです。
「デジタルを使うこと」を目的にするのではなく、「成熟社会で生き残ること」を目的とし、その手段として、「デジタルを駆使する」と考えるべきでしょう。
DXとは、そこまで踏み込んだ取り組みなのです。
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2022年10月3日紙版発売
2022年9月30日電子版発売
斎藤昌義 著
A5判/384ページ
定価2,200円(本体2,000円+税10%)
ISBN 978-4-297-13054-1
目次
- 第1章 コロナ禍が加速した社会の変化とITトレンド
- 第2章 最新のITトレンドを理解するためのデジタルとITの基本
- 第3章 ビジネスに変革を迫るデジタル・トランスフォーメーション
- 第4章 DXを支えるITインフラストラクチャー
- 第5章 コンピューターの使い方の新しい常識となったクラウド・コンピューティング
- 第6章 デジタル前提の社会に適応するためのサイバー・セキュリティ
- 第7章 あらゆるものごとやできごとをデータでつなぐIoTと5G
- 第8章 複雑化する社会を理解し適応するためのAIとデータ・サイエンス
- 第9章 圧倒的なスピードが求められる開発と運用
- 第10章 いま注目しておきたいテクノロジー